賀川さんは数年前から老人ホームで暮らしていた。杖の助けを借りながら自力で歩行していたが、今年10月に体調が悪化し、入院。ベッドに伏せる時間が長くなり、食事も満足に摂れない状況が続いていた。
賀川さんは自身の膨大なサッカー関連蔵書を神戸市立中央図書館に寄託し「神戸賀川サッカー文庫」として公開。11月14日に10周年の記念イベントが開催されたが、体調不良で欠席していた。その後、快方に向かい退院したが、この日朝、生活していた施設で体調が急変し、搬送された神戸市内の病院で亡くなった。
甲子園球場が誕生した1924(大正15)年に生まれた賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブで天皇杯準優勝を経験した名プレイヤーでもあった。第2次世界大戦中は、軍隊に召集され、志願して航空隊に入った。戦闘機乗りになったが特攻直前、終戦を迎えた。引き揚げ後、52年に産経新聞社(大阪)に入社。得意分野のサッカー取材を始め、ヤンマーに入社した釜本邦茂ら日本代表の選手や協会関係者に密着した。日本サッカーの父と呼ばれたドイツ人指導者、デッドマール・クラマー氏と親交が深く、強化されて64年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表に丹念に取材した。60年の東京五輪では閉会式の原稿を書いた。ドイツ留学を考えていた当時中学生の岡田武史氏(元日本代表監督)から相談を受け、進学を進めたこともあった。
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