- 1 名前:砂漠のマスカレード ★:2018/10/03(水) 07:07:38.43 ID:CAP_USER9.net
- 矢野隼人の名を記憶に留めている人はどれほどいるだろうか。
1998年、帝京の超高校級ストライカーとして注目を集め、全国高校サッカー選手権大会で準優勝。
1999年、高3で日本サッカー協会強化指定選手(現JFA・Jリーグ特別指定選手)となり、
ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でJリーグデビュー。
2000年、V川崎に加入し、いきなり9番のユニフォームを渡された。海外サッカーがいまよりずっと強い憧れとロマンをもって語られていた時代、そこかしこに何人もの和製〇〇が生まれた。
矢野はその風貌とプレースタイルからブラジル代表の怪物ストライカーであるロナウドに喩えられ、盛んにメディアで取り上げられた。ほとんどはうたかたの夢と消え、矢野もまたそのひとりとなる。
Jリーグ通算11試合0得点。2002年、東京Vで現役引退を決めた矢野が残した足跡のすべてだった。
「刈谷から全国で通用する選手を」
以降、矢野の歩みは紆余曲折あった。サッカー界から完全に離れて中古車のセールスマンとなり、2007年JFLのFC刈谷で現役復帰、しかし腰を痛めて2年後に2度目の引退。
ほぼ同時に立ち上げられた中学生年代の街クラブ、ホペイロ刈谷(現刈谷JY)で指導者の道に入った。「一度はサッカーを嫌いになって辞めたんです。だから、未練はありませんでした。
刈谷で現役復帰し、残念ながらいい結果を残せませんでしたが、この選択に後悔はないですね。
それまで大人の言葉に従ってサッカー人生を歩んできた僕が、初めて自分で決めたことでしたから。己の力で這い上がり、Jリーグの舞台に戻りたかった。今後は育成年代のスペシャリストになるのが目標です。刈谷から全国で通用する選手を育てたい」
そう語っていた冬の日から、およそ10年の歳月が流れている。
世代別の常連・山田寛人を育成。
矢野は地道に経験を重ね、ホペイロ刈谷は技術を磨き、頭を使ってプレーするテクニカルな集団の特色を強めていく。
「これが、あの身体能力で勝負していた矢野くんのチームなの?」とあからさまに驚かれることもあった。そして、その先には大きな才能との邂逅が待っていた。
「体験会にきた選手のなかで、ひとりだけ別格でした。ファーストタッチを見た瞬間、これはスペシャルだと。
とにかくボールタッチが柔らかく、顔も上がっている。まるで(ジネディーヌ・)ジダンみたいだと思ったのを憶えています」当時11歳、小学6年の山田寛人(現セレッソ大阪)である。山田は刈谷でプレーすることを選び、やがてU-15日本代表を皮切りに年代別代表の常連へと成長していった。
「寛人はストライカーとしては育てていないんですよ。当時のチームに点を取れる選手がいて、2列目から飛び出すセカンドアタッカーの位置づけ。
意外性のあるシュートやラストパスなど、豊かなアイデアを発揮していましたね。
唯一の課題は走れないことだったんですが、攻守における要求の水準を高めることでだんだん走力がついてきて、中3になってからはスピードがぐんと上がったhttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181003-00832019-number-socc
10/3(水) 7:01配信https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_news/hss111-jlp01281587.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=QxqDlLm9Nrw
http://www.youtube.com/v/QxqDlLm9Nrw?fs=1&hl=ja_JP第77回全国高校サッカー 東福岡、2年連続優勝
引用元: http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1538518058
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Source: フットボール速報